このあいだスミスの『道徳感情論』を読もうと、翻訳を見ていたら、とにかく意味がわからない。原文に照らしたところ、翻訳に多くの間違いがあることがわかった。ツイッターでしらべると、職業哲学者数人のアカウントによって「わかりやすい」とか「直訳」とか評価されている*1。わたくしがよくないと評価するものを、どんな評価基準によってか人々は、よいと評価する。こんなことばかりである。
とはいえ、とりあえずごく一部の切片だけれど、哲学書、あるいは思想書のなかでもとりわけて理論的なものを訳す(というより、その前段階、前提として、読む)ときに、どういうことに気を配ってほしいかを示すのに、よい例と思った。とりあげさせてもらう。つぎは、高哲男訳『道徳感情論』(講談社)の30–31頁から引いている。番号はわたくしが振った。
[1]他人が何を感じているか、我々はそれを直接体験することができないから、他人が心を動かされる仕方を知る方法は、同じ状況にあれば自分が何を感じるかを想像する他にない。兄弟が拷問台にかけられていようと、我々自身が安楽でいるかぎり、彼の苦しみが何であるか、我々の感覚器官がそれを教えてくれることはない。[2]感覚器官が、自分の身体と離れて作用することはなく、またできるはずもない。兄弟が抱いている感覚がどのようなものかをめぐる観念は、もっぱら想像によるものである。感覚器官の機能は、もし我々自身がその立場にあった場合、我々の感覚器官が感じるようなものを我々に想像させる、という仕方に限られている。我々の想像力が察しとるのは、兄弟の感覚器官に生じる印象ではなく、自分自身の感覚器官に生じる印象だけである。[3]我々は、想像によって自分自身を彼の立場に置き、同じ拷問のすべてに耐えると思い浮かべ、それをまるで彼の身体であるかのように理解し、こうして或る程度まで彼と同じ人物になる。その後で、彼が感じていることについて一定の観念を形成し、程度こそ劣りはするが、多少とも彼が感じ取っているものに似た何かを感じさえする、というわけだ。彼が味わう死の苦しみは、こうして自分自身によって痛烈に感受され、我々がこのように受けとめて自分のものにしたとき、我々の心を最終的に動かし始める。そのとき我々は、彼が感じているものを思い浮かべて身震いし、身の毛がよだつのだ。というのは、いかなる種類の苦痛や苦悩であれ限りない悲哀を呼び覚ますように、そのような状態にあると思ったり想像したりすることが、理解の鈍さに応じて、ある程度までは同じ情動を引き起こすからである。
番号の箇所ごとに原文と照らしながら検討したい。原文は Knud Haakonssen編 The Theory of Moral Sentiments (Canbridge University Press) からである(訳者が参照したのは Glasgow 版の第6版とのこと、そちらも確認したけれどもとくにテクストに差異はない)。わたくしの訳文ものせよう。多少文章スタイルがつたないのは許してもらおう。今回そこに力点はない。その後に高訳にコメントしてゆく。こういう結構である。
[1]について
原文
As we have no immediate experience of what other men feel, we can form no idea of the manner in which they are affected, but by conceiving what we ourselves should feel in the like situation. Though our brother is upon the rack, as long as we ourselves are at our ease, our senses will never inform us of what he suffers.
私訳
わたくしたちは、他人が感じることをじかに経験するわけではないから、おのれなら同じような状況におかれたら感じるはずのことを思念するよりほかのやりくちでは、当の他人が感受するしかた、の観念を形成できません。わたくしたちの兄弟が絞首台にかけられていようにもせよ、おのれが安穏の境涯にあるあいだはずっと、わたくしたちが、おのれの感覚の報せによって、彼の苦しむところを知る、ということは決してないのです。
コメント
1/(1.1)全体を通して、conceive や conception の訳語がぶれている。ここでは「想像する」としているけれども、あとには「観念」とか「思い浮かべ」るとか「理解」とか、ずいぶん自由に訳されている。(1.2)これらの語がそれほど重要でないならともかく、(術語かどうか、ということは気にしていないので注意せよ)、スミスのここの議論にとっては重要だから、一貫した訳にしてもらわないと読者は混乱しやすい。じっさい、訳し分けられているせいで、スミスの議論は不明瞭になってしまっている。(1.3)というより、訳者はここでの議論を理解できていないから、このように自由に訳してしまえるのだろう。とくに、ここで「想像」と訳すのは、スミスの議論が理解できなくなるから、やめてほしい。このしだいは追って述べる。(1.4)私訳では「思念(する)」で通した。
2/(2.1)ここではまず、経験と思念が対比されていることを掴むべきだ。つまり、他人が感じていることをじかに経験はできない、他人が感じているとおりにそれを感じることはできない。どんなしかたで他人が感じるかの観念 idea を得るには、他人と状況がひとしい際のおのれの感じを思念するしかない。(2.2)おのれの兄弟の例は、きわめて身近な人物のきわめて切迫した感じ方を論じて議論のポイントを明確にしている。どんなに身近な他人の感じ方でさえ、なるほどじかに感じることはできない。つまり、感覚という能力によって、当該の思念を形成することはできない。そのようなことが可能だとしたら、それは感覚によるのではない、ということだ。これが次につながる。(2.3)以下続けて、感覚は(経験の範囲、その限りの思念についてはできるかもしれないにせよ)経験の範囲を超えた思念はつくることができない、ということが論じられてゆく。感覚は経験!想像は思念!のような言葉のイメージの対応を教えているのではなく、スミスはきちんと事柄を論じている。それがわからないひとはこういう難しい文章を読んでも無駄であろう。
[2]について
原文
They never did, and never can, carry us beyond our own person, and it is by the imagination only that we can form any conception of what are his sensations. Neither can that faculty help us to this any other way, than by representing to us what would be our own, if we were in his case. It is the impressions of our own senses only, not those of his, which our imaginations copy.
私訳
感覚はわたくしたちを、わたくしたち自身の身柄を超えては決してゆかせませんし、決してゆかしえません、それで、わたくしたちが兄弟の感応の何ぞやの思念を形成しうるのは、ひとり想像力によるというわけです。この能力も、こういう向きにむけてわたくしたちにとり役立つのは、もしわたくしたちが兄弟の立場にあったなら、わたくしたち自身の感応は何であったろうか、をわたくしたちに表象する、というより他のいかなしかたでもありえません。わたくしたちの想像力が写しとるのは、ひとりわたくしたち自身の感覚の印象であって、兄弟のそれではないわけです。
コメント
3/(3.1)その点の理由が記されている。感覚はわたくしたち自身の身柄 person を超えてわたくしたちをおもむかす carry ことがない!(3.2)これを「感覚器官が、自分の身体と離れて作用することはな」いとお訳しになる。「自分の身体を離れて作用する」とはどういうことか? 感覚器官が自分の身体に備わっている以上、よほどおかしく極端な立場をとらないかぎり、作用するのにおのれの身体を離れないことは自明だろう。(3.3)思うに、carry us beyond our own person といわれることの意味が、お分かりでない。感覚では、他人の感じ方は兄弟のそれでさえ知ることができない。それはなぜか。感覚は、おのれの身柄のおかれる境遇の外にはつれていってはくれないから、というのだ!感覚の作用のしかたの話などではない。感覚が何を教えてくれないのかにかかわる話である。
4/(4.1)感覚ではないなら何によって知るのか。それは想像力によるのだ、とスミスはいう。(4.2)先に(1.3)で予告したのはこの点である。わたくしたちは、他人の感じるところを経験することはできない。だから他人の感じるところを知るには、それにつき何らかの思念を形成するのでなければならない。しかし、感覚は、おのれを超えて、いうなら経験を超えて何かを思念させるわけではないから、これではない。そういう思念 conception を可能にするのは、想像力 imagination だ、というのである。conception を想像と訳したのではこのとおり意味がわからなくなる。
5/(5.1)that faculty を imagination ではなく senses を指すものと訳している。何もわかっていない証拠であろう。(5.2)つぎの文で、想像力の参照先が他人の感覚印象ではなくおのれの感覚印象に限られる、ということの意味が、これではわからなくなる。あくまで想像力の話をしている。(5.3)感覚は他人の感じるところを教えてくれない。想像力がそれを可能にする。ざっくりとはこういう文脈である。ここでは想像力の知らせ方に留保をつけているわけだ。つまり、想像力も、他人の感じるところを直接知らせるのではない。この点は感覚と同じである。そうではなく想像力は、もしおのれが他人の状況におかれたら、おのれはどう感じるだろうか、という、条件文の構造をもった思念をかたちづくり、あくまで、他人と状況が同じときにじぶんの感じるだろうところ、を知らせる。(5.4)というか faculty を「機能」と訳しているのであれば、それは正直やめてもらいたい。機能ではなく、能力 (facultas) である。とくに近世のころの認識論というのは、大筋、能力論として展開された歴史がある。理性というのはあれからこれへの推論をつかさどる、想像力というのはイメージを切り貼りして何かをあらわしかたどる、知性というのはものごとの本質をきりだすようなしかたでそのものごとをとらえる。ざっくりとはこういうように能力のはたらきを分類し、詳解し、その組み合わせで認識の成り立ちや導き方を論じる分野がかつてあった。ここで指されているのは、心の能力という独特の存在者であって、その能力の機能や総体としての心の機能(といえるなら)のことではない。
6/(6.1)copy を「察しとる」と訳す。なぜこんな訳にするのかがわからない。近世までの霊魂論(あるいは、それにかかわる、或る種の能力論として展開された認識論)の基本的なところがわかっていないのではないだろうか?(6.2)想像力は、文字通りコピーし、写しとるのである。おのれの感覚印象を呼び起こすといえど、感覚器官が直接に何かを受容して何かを感覚するのとはわけがちがう。感覚器官の得てきた印象を原本として、それを写して表象 represent する、そういう役割がイマーギナーティオにはあてがわれている。このくらいのことはこの時代の哲学者の書いたものを訳すようなひとには、ごく当たり前に知っていてもらいたいのだけれど……
[3]について
原文
By the imagination we place ourselves in his situation, we conceive ourselves enduring all the same torments, we enter as it were into his body, and become in some measure the same person with him, and thence form some idea of his sensations, and even feel something which, though weaker in degree, is not altogether unlike them. His agonies, when they are thus brought home to ourselves, when we have thus adopted and made them our own, begin at last to affect us, and we then tremble and shudder at the thought of what he feels. For as to be in pain or distress of any kind excites the most excessive sorrow, so to conceive or to imagine that we are in it, excites some degree of the same emotion, in proportion to the vivacity or dulness of the conception.
私訳
想像力によってわたくしたちはおのれを兄弟の状況におきます、おのれが寸分違わぬ拷問を耐えしのぶ様を思念します、いわば兄弟の身体に乗りこみ、兄弟と同じ或る程度身柄になり、ここから汲んで兄弟の感応の或る観念を形成し、兄弟の感応に、比べると度合いは弱いにしても、まったく似つかないということはない或るものを感じさえするのです。兄弟の悶え苦しみの数々、これがかくてわたくしたちに切実に感じられ、かくてわたくしたちがこれを引き受けおのれ自身の悶え苦しみとなすようになると、これはいよいよわたくしたちを触発しはじめ、かくてわたくしたちは兄弟の感じるところを思うにつけわななき身を震わします。どんな種類の痛みや苦しみにせよ、そういう痛みのうち、苦しみのうちにあることがきわめて度を超えた嘆きを引き起こすのと同じく、わたくしたちがそのうちにあると思念すること、あるいは想像することも、その思念が生き生きとしているかどんよりとしているかに応じて、同じ情動を或るていど引き起こす、というわけです。
コメント
7/(7.1) conceive をこんどは拷問に耐えると「思い浮かべ」るとお訳しである。ここもきちんと同じ言葉で通して訳してくださらないと困る。(7.2)スミスはこれまでの箇所で、他人と状況が同じ場合におのれの感じるだろうところを conceive するには感覚では用をなさず、想像力こそがその役目をつとめる、と論じている。そこを論じてここでようやく「想像力によって (by imagination) という書き出しで、おのれが拷問に耐えるさまを conceive する、と述べることができている。(7.3)訳語を通さないと、このポイントがまったく見えなくなる。論理のはこびがすこしもわからない訳になっては困る。(7.4)最後の箇所には to conceive or to imagine といわれるけれども、これとて単純に conceive と imagine を言い換えているわけではない、ということが、ここまで読んできた方ならおわかりだろう。スミスは、あくまで、わたくしたちが他人と同じ状況、つまり拷問の場合には痛み苦しみ、のうちにある、と思念する、というケースを問題にしているから、ここではその役目を果たす唯一のものが想像力であるということを前提に、安全に、想像する、と言い換えることができている。こういう繊細な論述がわからないようでは困る。訳者は多分わからず、ここを単純な言い換えととったのではないかしら?それで、冒頭の、conception を想像と訳してしまう事態になったのではなかろうか。
8/(8.1) in proportion to the vivacity or dulness of the conception を「理解の鈍さに応じて」というのは、趣味の問題もあるかもしれないけれども、the vivacity を抜かしていて単純に誤訳にみえる。どれくらい小さいかに応じて、と、大小に応じて、では、いっていることに論理的な違いがあるかはともかく、レトリカルな違いは出てくるはずで、前者のいいまわしは小さなものをとることにこそ重点をおいた話ぶりになり、大きいか小さいかにニュートラルな語り方ではないようにみえる。それと同じことがここにもいえると思うけれど、断ったとおり趣味の部分もあるかもしれず、強く述べるつもりはない。(8.2)なおここは「理解」である。やめてほしい。
*1:直訳ということのふくみは大変微妙。しかしわたくしの思うに、直訳というのは意訳に対していわれるから、意を汲んで工夫して訳すのではなく、あくまで文法や語彙のとおりの忠実に訳す、という、そのかぎりでは肯定的意味でいわれると思われる。特に肯定的に使われない場合、否定的な文脈で使われる場合でさえ、以上の意味で肯定的に評価されるのは前提で、しかしそれでは生硬でよろしくないとか味気ないとかいろんな話が上に乗ってくる。